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ASSASSIN'S CREED Wiki

データベース:オスマン帝国

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オスマン帝国の名が世界史に初めて登場するのは、1301年にコンスタンティノープル のわずか50km東で行われたバフェウスの戦いにおいてだ。オスマン という人物に率いられたこのトルコ 人の軍勢は、大軍とは呼べない規模だったにもかかわらず大勝利をおさめ、ビザンツ 軍は北のマルマラ海まで敗走することを余儀なくされた。ビザンツ帝国は数十年前からこの地方を掌握するのに苦労していたが、それでもまだ彼らは敵を侮っていた。それだけにこの敗北は大きなショックだった。

それから150年間、オスマン帝国はほとんど妨害を受けることなくその力と版図を拡大しつづけた。勝利に勝利を重ねるオスマン帝国は、まずはアナトリア(現在のトルコ)、次はトラキア(現在のハンガリー、ギリシャ 、マケドニア、アルバニア、etc)といった具合に、徐々に、しかし着実にビザンツ帝国が支配していた地域を我がものとしていった。東ヨーロッパ におけるオスマン帝国の拡張は西ヨーロッパ諸国に不安を与えた。とりわけ憂慮の念を抱いたのはカトリック教会だ。彼らと東方正教会は犬猿の仲だったが、イスラム帝国の勢力増大という事態を前にしては、彼らの争いなどしょせんは内輪のいざこざに過ぎない。だが、実際に彼らの西進を押しとどめる努力を何かするかとなると話は別で、ローマ教皇でさえ苦境にあえぐビザンツ帝国に応援を送ろうとはせず、15世紀中頃には、首都コンスタンティノープルとその周辺の村々を除くすべての土地を失うに至った。

そして1453年、54日におよんだ戦闘の後、コンスタンティノープルは陥落 する。防壁に開けた穴から市内になだれ込んだのは、21歳のスルタンメフメト2世 に率いられたイェニチェリ軍団だ。市中心部に駒を進めたメフメト2世は、まっすぐにアヤソフィア を目指し、この歴史ある大聖堂の前でひざまづき、敬意の印として地面から土をすくって自分のターバンにふりかけたと言われている。

ボスポラス海峡に面したこの街への遷都を望んでいたメフメト2世が発した最初の命令は、世界帝国にふさわしい都としてコンスタンティノープルを再建することだった。ちなみにトルコ語でコンスタンティノープルはコンスタンティニエと言う。イスタンブールというのは、イスラム教徒の住民たちによる呼び名だ。こうして征服から10年間、メフメト2世はビザンツ時代の建物を可能なかぎり残しつつ、あらゆる物をオスマン帝国風に改めていった。この点においてメフメト2世は成功したと言えるだろう。なにせわずか20年あまりの間に、わずか4万人だった街の人口は、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ロマを合わせて10万人にまで増えたのだから。慣習法だけでなく、成文法によっても信教の違いや文化の違いが保証されていたコンスタンティノープルでは交易が盛んに行われ、その活気に惹かれて東西両方から人々が集まってきた。

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