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ACR Yusuf


一般的な史書に彼の名前はほとんど載っていないが、本人はむしろそのことを喜ぶだろう。ユスフ・タジム は1467年にトルコブルサ で生まれたが、8歳でコンスタンティノープル に移り住み、母親によって育てられた。父親はアサシン だったから、ユスフが同じ道を歩むことになったのは、いわば当然の帰結というものだ。ただし、ユスフの父親がどうなったのかは不明だ。殺されたのか? 妻と子を捨てたのか? それは誰にもわからない。

17歳になる頃には、ユスフの名は大ぼら吹きのこそ泥として街中に知れ渡っていた。だが、宮廷の重鎮だったかのイシャク・パシャ との偶然の出会いがすべてを変えた。イシャクもアサシンで、バヤズィト2世 のお膝元を活動の場としていた。かのヴラド・ツェペシュ の国に遠征し、後にオスマン帝国 とアサシンが一応の休戦協定を結ぶにあたって仲介役を果たしたイシャクは、当時、教団の教えに賛同する開明的な人々を募るため、熱心に働いていた。ユスフも彼のカリスマ性とざっくばらんなやり方に惹きつけられ、20歳の誕生日を待たずしてアサシンの一員となった。

アサシンとなったユスフはめきめきと頭角を現し、1500年には誰からも一目置かれる存在になっていた。1502年、ユスフはギリシャヴェネツィア のアサシンと出会い、平和裏にオスマン・ヴェネツィア戦争 を終結に向かわせる方法を模索することになる。この努力は半分だけ報われ、1503年に両国は戦闘を停止。オスマン帝国の西の国境に平和がもたらされることになった。

アサシンが平和を守ったことに安心したのか、その治世の最後の10年間、バヤズィト2世は政治をおろそかにし、怪しげな書物や錬金術の実験にのめりこんだ。アサシンにとってもこれは望ましいことだった。けだるい平和の方が、果てしない戦いと領土拡張よりずっとマシだ。だが、1509年の大地震を境に、コンスタンティノープルに新たな脅威が出現した。ビザンツ帝国 復興を掲げるテンプル騎士団 だ。かくして比較的平穏だった時は終わりを告げ、ユスフはアサシンたちを率い、長く苦しい戦いに備えなければならなくなったというわけだ。 

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